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天網(17) [天網]

2006/3/31(金) 11:15 投稿:和島英樹  記事URL トラックバック ( 0 ) コメント ( 35 )

 3月中旬、東京地検特捜部は佐藤崇を逮捕する方針を固めた。東京地検特捜部――。正式には東京地方検察庁特別捜査部という。地検とは全国の47都道府県にひとつずつ設置されている検察庁の出先機関で、特捜部を持っているのは東京、大阪、名古屋の3ヶ所だけである。検察庁の仕事は本来、警察から送検されてきた事件について補完捜査、起訴・不起訴の判断などを行うことである。特捜部はこれとは別に、独自に捜査、権限を持った特別な部署。大型経済事件や、政財界の汚職事件など、国民に大きな影響を及ぼす事件に直接かかわって、解決するエリート集団だ。場合によっては海外の警察などとも連携し、国際犯罪の解明にも一役買うケースもある。実際に捜査に当たるのは検察官という役職。検察官は検事と副検事からなり、検事は司法試験をパスした精鋭である。検察庁の職員は1万人強と推計されるが、東京地検特捜部の検事は30名程度という狭き門なのである。その東京地検特捜部が佐藤に狙いを定めたということは、株式市場での派手な動きが、国民的関心事であったという証左でもあるのだった。絶大な権限を持つ検査官のトップである次長検事が、検察官が集まる捜査会議で、正式にゴーサインを出した。


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天網(16) [天網]

2006/3/24(金) 16:08 投稿:和島英樹  記事URL トラックバック ( 0 ) コメント ( 6 )

 外為法とは、正式には『外国為替及び外国貿易管理』のことである。外為法では一回につき3000万円相当額を超える海外送金については、銀行などの送金担当者が大蔵省の外国為替室へ報告書を提出する義務が課されている。出資法とは、後で利息や配当などの形で元本を超える金額を払い戻すことを約束して、不特定多数の人から出資金を集める行為を禁止した法律である。佐藤が金を集めて海外に持ち出して運用。元金と収益を分配した行為が両方の法律に触れる可能性があるという。外為法違反は懲役3年以下、または100万円以下の罰金、出資法違反は3年以下の懲役というのが基本的な量刑となっている。経済犯罪としてはこれでも重い罪の部類に入るという。

 中井戸は「なんだか難しそうだが、とにかく2つくらいの法律に違反している可能性があるわけだな」と口を挟んだ。
橋北は続けた。「ただ、出資法に関しては、大蔵省による報告書の捜査機関への提供は、目的外使用にあたる可能性があるほか、国家公務員法上の守秘義務違反に抵触する恐れもあるため、めったなことでは発動されないザル法なんだ。出資法もインチキ商法などの防止策などのために設けられた面が強い。佐藤とやらは、おそらく十分な利益を出して出資者に返しているので、被害者が存在しない可能性がある」
中井戸は「何も知らない、個人投資家などはひどい目にあったがね」と朝原の顔を思い浮かべながら切り返した。橋北は大きくうなずいて、「それはそうだ。しかし、おまえがさっきいった通り、相場絡みでの立件は難しいんだ。さらに、お金は足がつかないように現金で政治家などに戻されているだろうから、当局の捜査がすぐに進まないことは、容易に想像できる。そもそもファンドを設立して運用していたため、法律違反が立証できるかも微妙な状況に見えるがね。場合によっては宮鉄鋼相場の時の所得税法違反、つまり脱税という線もある」といった。
「いろいろ探ってはいるが、まだ、捕まるかは流動的というわけだ」
「動き出した以上、空手形というわけにはいかんと思う。また、動きがあったら連絡するよ」といってビールを一気に飲み干した。中井戸は朝原の件があったことで、橋北とのやりとりがやや感情的になってしまったことを感じた。本来、株式投資は自己責任で行われるものだから、丸松農林相場についても、それに乗った投資家が悪い。ましてやプロの朝原なら当然なのである。しかし、素人の個人が佐藤の雰囲気に飲まれて参加した、というのはどうなのか。中井戸は「よろしく頼む」といって、グラスを空けた。

話に区切りがついたところで、二人のやり取りを興味深そうに聞き入っていた由美子が、気を使いながら入り込んできた。「難しい話はわかりませんが、橋北さんて、すごいですね。検事さんみたい」といった。橋北も話すことが一巡したのか、「そうですか。編集局内では窓際扱いなんですがね。今度、由美子さん、うちの会社にきて、上司に言ってやってくださいよ」と友人の顔に戻り、またも大きな声で笑った。そして、「でも、今回の件は、中井戸が最初に情報をくれたんです。すごいのはこいつですよ。仕事以外では芳しくないみたいですけどね。いや、違った。由美子さんが登場してからは絶好調か」と橋北らしいフォローを入れてくれたのだった。その後はまた、お互いの話などをするうちに、時間が過ぎていったのだった。


居酒屋を出ると雪が舞い始めていた。朝の天気予報でも雨か雪になるだろうといっていたが、由美子といる時の雪は初めてだったので、それだけでなんだかうれしかった。橋北は店を出たところで、「おれはここで失礼する。由美子さん、中井戸をよろしくお願いします」といって軽く頭を下げた。由美子が「はい」とうなずくと、橋北はきびすを返して、大またで去っていった。本当はもう少し飲みたかったのかも知れないが、二人にしてやろうという、橋北流の気の使いようなのだと思った。
橋北の後姿を見送りながら、中井戸が「あと30分くらい大丈夫?」と聞くと由美子は「ええ」といった。数分歩いたところに、大手ウイスキーメーカーが直営しているバーがある。平日なので空いている。カウンターではなく、やや奥まったところに席を取り、中井戸はバーボンのロックを、由美子は店が推薦する、あまり甘くないカクテルを頼んだ。二人でグラスを合わせると、由美子は「橋北さんて、面白い人ね」と微笑んだ。
「学生時代から相当に優秀だったんだけど、そういう風に感じないでしょ」
 「本当に。でも、まじめな話をしている時は切れ者というオーラが出ていたわ。ところで、貴方が橋北さんに情報を伝えたという、さっきのお話はどういうことなの」
 「うん、株式市場には特定の銘柄を吊り上げて、利益を得ようとする投機家がいるのだけれど、今回、ある銘柄で法令違反があったらしいということなんだ。株式市場を毎日見ていると、そういう場面に遭遇することがある。しかし、今度のケースは社会的にも大きな話題になったし、被害を受けた投資家も多数いる。それだけ、事件性が高かったから、当局も見過ごせない事案になったようなんだ」
 「そう。でも、中井戸さん、情報を取るために危ないことをしてないですよね。橋北さんとのやりとりを聞いていたら、なんだか怖くなったわ。気のせいかもしれないけれど……」
 中井戸は由美子の鋭さに一瞬動揺したが、冷静さを装い「大丈夫。僕は株式市場の情報を追っているだけだから」と笑顔を作り否定した。丸松農林の相場は既に終わった。特定筋と見られる人物に自宅までつけられたこともあったが、それも過去のことのはずだった。「それなら、いいわ」と由美子はまだ、納得はしていないようだった。やや微妙な空気が流れた。中井戸の今日の決意が鈍りそうだったが、切り出した。
 「それより」と、一呼吸をおいて、中井戸は今しかないと思いなおして、バックから小さな包みを取り出し、「これを受け取ってもらえないだろうか」と由美子に差し出した。
 由美子は「えっ、なに」といいながら、きれいな指で持ち上げて、「開けてもいいですか?」と聞いた。中井戸が「是非」というのに促され、包み紙を丁寧に開けていく。中にはビロードで覆われたケースが入っている。それをゆっくりと開くと、そこには小さな宝石がちりばめられた指輪が入っていた。由美子が驚いたような表情を中井戸に向けたところで、「一緒になってくれないか」と由美子を見つめた。由美子はもう一度、指輪をじっくりと眺めた。顔を上げると、満面の笑みをたたえながら、その瞳からは大粒の涙が溢れかえっていた。そうして、大きく「はい」とうなずいた。中井戸は由美子のうれしそうな表情に安堵するとともに、胸がいっぱいになった。うれしさのあまりの涙が出るのを必死でこらえながら、精一杯の思いを込めて「ありがとう」といった。
 店の外の雪は積もり始めているようだった。


 

天網(15) [天網]

2006/3/17(金) 10:00 投稿:和島英樹  記事URL トラックバック ( 0 ) コメント ( 7 )

 長年相場に参加していた朝原ですら、相場で大きな痛手を負った。彼は間違いなく、株式市場の裏も表も知り尽くしたプロだった。ましてや、個人投資家は厳しい状況に置かれている。丸松農林を買っていなくても、全般の戻り過程で何らかの株を購入していれば、2万2666円をピークに下落に転じた相場では含み損や売却損を抱えたはずである。思えば、今回の全般相場の上昇は、丸松農林が上げ、他の仕手株が追随し、個別材料株に人気が波及した。そして主力銘柄がようやく動き出したのだった。もし、政府が構造改革を優先し、増税などの国民負担を後回しにしていれば、その間に株式市場がさら上昇し、景況感も改善していたはずだ。日経平均が10%上昇すれば、東証の時価総額は約40兆円増加する。これが消費や投資を促進する効果になる。株価がもう少しでも戻り、その間に省庁再編などを行い、その後に消費税の引き上げなら国民の痛みは緩和されたはずだったとも考えられる。


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天網 (14) [天網]

2006/3/10(金) 10:47 投稿:和島英樹  記事URL トラックバック ( 0 ) コメント ( 11 )

 12月も残り少なくなったある日の朝、中井戸宛に電話がかかってきた。電話に出ると、女性の声で「朝原と申します」と名乗った。「どちらの朝原さんでしょうか」と前回の脅迫事件のこともあり、慎重に聞いた。「投資顧問を経営しております、朝原の妻でございます」と言ったところでやや安堵したが、今度はどういう用件なのか疑問に思った。中井戸は「いつも大変お世話になります。奥様からお電話とは、どのようなご用件でしょうか」と聞き返した。妻はつとめて冷静な声で「昨晩遅くと思われるのですが、朝原が自殺しました」と区切るようにゆっくりと語ったのである。


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天網 (13) [天網]

2006/3/3(金) 09:45 投稿:和島英樹  記事URL トラックバック ( 0 ) コメント ( 8 )

 丸松農林はその後も買い進まれ、2500円までのリバウンドを見せた。杉村組の資金の出所などは不明だったが、投資家ならば株価が上がれば売るのが当然だ。いつこの売りが出てくるかがわからず、かつてのようなどこまで上がるかわからないという期待感は持てない。11月に3000円を超えたところで株価は止まった。それでも安値からは3倍近くになっており、杉村組は利益を出せたか、損失を軽減できたことは容易に推測できた。そんなある日、日高は大量保有報告書を持って中井戸のところにきて「杉村組とやら、名義が消えたよ」といって書類を置いた。どういう仕組みだったのかはわからないが、戻り相場が終えんしたことだけは明らかだった。戻ったとはいえ、最高値から見れば半分以下の水準だ。2500円前後で売れていたとしても、損失が小さくなっただけに過ぎない可能性もあった。ただ、いえることは、中井戸が自宅のアパートに帰っても大丈夫ということである。由美子を不安がらせてはいけないので、電話で話すときもこの件は伏せておいた。普段は海外にいることを寂しく思うが、今回ばかりは日本にいない幸運に感謝したのだった。

 何らかの力が働いた相場は、たがが外れたような下げ相場となった。1株利益が7円の会社が東証1部平均のPER30倍に買われたとして210円が妥当値となる。株価の下げ止まりは少なくとも、その前後かもしれない。投げ売りで需給が悪化していることを考えると、さらに下げる可能性すらある。株式市場では需給だけで上がった相場は、「先祖帰り」といって元の水準まで戻るのである。それには参加した投資家が強烈な痛みを伴うことは言うまでもないことなのだった。

 11月下旬のある日の夜、ひとつの死体が東京湾に浮かぶ釣り船から海へ投げ入れられた。指紋はすべて焼ききられ、歯も一本残らず叩き折られていた。人物の確定が困難になった死体の足は、ご丁寧にも20キログラムはあろうかというダンベルに頑丈な鎖で繋がれ、2度と浮かんでこないようになっていた。佐藤のいう、「あいつ」だとは誰もわからないのだった。どうやら、今回丸松農林を仕掛けたか、敗戦処理を行った筋は、一時的な株価の戻り程度ではご不満だったようだ。

 そんな折、橋本内閣は97年4月から消費税を現行の3%から5%へ引き上げることを正式に発表した。のみならず、特別減税の廃止も決めた。これだけで国民負担は9兆円増えると推計された。さらに同年9月からは医療費の加入者本人負担を1割から2割にすることも決定した。橋本首相は当初、改革を先に進めて、その進捗を見極めてから国民に負担してもらう場合がある、といっていた。しかし、改革を行わないうちに負担ばかり求めることが明らかなったのである。大蔵省が、財政の裏づけがなければ予算が組めない、として政権に迫った結果なのだったが、まず負担ありきの政策に国民は失望した。株式市場では負担増が景気に与える影響を織り込み始め、12月に入って日経平均は2万円の大台を割り込んだ。この失政は後にも響き、翌年には1万4000円台まで急落することになる。持ち直すと見られていた景気が、市場関係者の懸念が的中し、明確に下降し始めたことが要因である。


 

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