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 3月中旬、東京地検特捜部は佐藤崇を逮捕する方針を固めた。東京地検特捜部――。正式には東京地方検察庁特別捜査部という。地検とは全国の47都道府県にひとつずつ設置されている検察庁の出先機関で、特捜部を持っているのは東京、大阪、名古屋の3ヶ所だけである。検察庁の仕事は本来、警察から送検されてきた事件について補完捜査、起訴・不起訴の判断などを行うことである。特捜部はこれとは別に、独自に捜査、権限を持った特別な部署。大型経済事件や、政財界の汚職事件など、国民に大きな影響を及ぼす事件に直接かかわって、解決するエリート集団だ。場合によっては海外の警察などとも連携し、国際犯罪の解明にも一役買うケースもある。実際に捜査に当たるのは検察官という役職。検察官は検事と副検事からなり、検事は司法試験をパスした精鋭である。検察庁の職員は1万人強と推計されるが、東京地検特捜部の検事は30名程度という狭き門なのである。その東京地検特捜部が佐藤に狙いを定めたということは、株式市場での派手な動きが、国民的関心事であったという証左でもあるのだった。絶大な権限を持つ検査官のトップである次長検事が、検察官が集まる捜査会議で、正式にゴーサインを出した。


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 外為法とは、正式には『外国為替及び外国貿易管理』のことである。外為法では一回につき3000万円相当額を超える海外送金については、銀行などの送金担当者が大蔵省の外国為替室へ報告書を提出する義務が課されている。出資法とは、後で利息や配当などの形で元本を超える金額を払い戻すことを約束して、不特定多数の人から出資金を集める行為を禁止した法律である。佐藤が金を集めて海外に持ち出して運用。元金と収益を分配した行為が両方の法律に触れる可能性があるという。外為法違反は懲役3年以下、または100万円以下の罰金、出資法違反は3年以下の懲役というのが基本的な量刑となっている。経済犯罪としてはこれでも重い罪の部類に入るという。

 中井戸は「なんだか難しそうだが、とにかく2つくらいの法律に違反している可能性があるわけだな」と口を挟んだ。
橋北は続けた。「ただ、出資法に関しては、大蔵省による報告書の捜査機関への提供は、目的外使用にあたる可能性があるほか、国家公務員法上の守秘義務違反に抵触する恐れもあるため、めったなことでは発動されないザル法なんだ。出資法もインチキ商法などの防止策などのために設けられた面が強い。佐藤とやらは、おそらく十分な利益を出して出資者に返しているので、被害者が存在しない可能性がある」
中井戸は「何も知らない、個人投資家などはひどい目にあったがね」と朝原の顔を思い浮かべながら切り返した。橋北は大きくうなずいて、「それはそうだ。しかし、おまえがさっきいった通り、相場絡みでの立件は難しいんだ。さらに、お金は足がつかないように現金で政治家などに戻されているだろうから、当局の捜査がすぐに進まないことは、容易に想像できる。そもそもファンドを設立して運用していたため、法律違反が立証できるかも微妙な状況に見えるがね。場合によっては宮鉄鋼相場の時の所得税法違反、つまり脱税という線もある」といった。
「いろいろ探ってはいるが、まだ、捕まるかは流動的というわけだ」
「動き出した以上、空手形というわけにはいかんと思う。また、動きがあったら連絡するよ」といってビールを一気に飲み干した。中井戸は朝原の件があったことで、橋北とのやりとりがやや感情的になってしまったことを感じた。本来、株式投資は自己責任で行われるものだから、丸松農林相場についても、それに乗った投資家が悪い。ましてやプロの朝原なら当然なのである。しかし、素人の個人が佐藤の雰囲気に飲まれて参加した、というのはどうなのか。中井戸は「よろしく頼む」といって、グラスを空けた。

話に区切りがついたところで、二人のやり取りを興味深そうに聞き入っていた由美子が、気を使いながら入り込んできた。「難しい話はわかりませんが、橋北さんて、すごいですね。検事さんみたい」といった。橋北も話すことが一巡したのか、「そうですか。編集局内では窓際扱いなんですがね。今度、由美子さん、うちの会社にきて、上司に言ってやってくださいよ」と友人の顔に戻り、またも大きな声で笑った。そして、「でも、今回の件は、中井戸が最初に情報をくれたんです。すごいのはこいつですよ。仕事以外では芳しくないみたいですけどね。いや、違った。由美子さんが登場してからは絶好調か」と橋北らしいフォローを入れてくれたのだった。その後はまた、お互いの話などをするうちに、時間が過ぎていったのだった。


居酒屋を出ると雪が舞い始めていた。朝の天気予報でも雨か雪になるだろうといっていたが、由美子といる時の雪は初めてだったので、それだけでなんだかうれしかった。橋北は店を出たところで、「おれはここで失礼する。由美子さん、中井戸をよろしくお願いします」といって軽く頭を下げた。由美子が「はい」とうなずくと、橋北はきびすを返して、大またで去っていった。本当はもう少し飲みたかったのかも知れないが、二人にしてやろうという、橋北流の気の使いようなのだと思った。
橋北の後姿を見送りながら、中井戸が「あと30分くらい大丈夫?」と聞くと由美子は「ええ」といった。数分歩いたところに、大手ウイスキーメーカーが直営しているバーがある。平日なので空いている。カウンターではなく、やや奥まったところに席を取り、中井戸はバーボンのロックを、由美子は店が推薦する、あまり甘くないカクテルを頼んだ。二人でグラスを合わせると、由美子は「橋北さんて、面白い人ね」と微笑んだ。
「学生時代から相当に優秀だったんだけど、そういう風に感じないでしょ」
 「本当に。でも、まじめな話をしている時は切れ者というオーラが出ていたわ。ところで、貴方が橋北さんに情報を伝えたという、さっきのお話はどういうことなの」
 「うん、株式市場には特定の銘柄を吊り上げて、利益を得ようとする投機家がいるのだけれど、今回、ある銘柄で法令違反があったらしいということなんだ。株式市場を毎日見ていると、そういう場面に遭遇することがある。しかし、今度のケースは社会的にも大きな話題になったし、被害を受けた投資家も多数いる。それだけ、事件性が高かったから、当局も見過ごせない事案になったようなんだ」
 「そう。でも、中井戸さん、情報を取るために危ないことをしてないですよね。橋北さんとのやりとりを聞いていたら、なんだか怖くなったわ。気のせいかもしれないけれど……」
 中井戸は由美子の鋭さに一瞬動揺したが、冷静さを装い「大丈夫。僕は株式市場の情報を追っているだけだから」と笑顔を作り否定した。丸松農林の相場は既に終わった。特定筋と見られる人物に自宅までつけられたこともあったが、それも過去のことのはずだった。「それなら、いいわ」と由美子はまだ、納得はしていないようだった。やや微妙な空気が流れた。中井戸の今日の決意が鈍りそうだったが、切り出した。
 「それより」と、一呼吸をおいて、中井戸は今しかないと思いなおして、バックから小さな包みを取り出し、「これを受け取ってもらえないだろうか」と由美子に差し出した。
 由美子は「えっ、なに」といいながら、きれいな指で持ち上げて、「開けてもいいですか?」と聞いた。中井戸が「是非」というのに促され、包み紙を丁寧に開けていく。中にはビロードで覆われたケースが入っている。それをゆっくりと開くと、そこには小さな宝石がちりばめられた指輪が入っていた。由美子が驚いたような表情を中井戸に向けたところで、「一緒になってくれないか」と由美子を見つめた。由美子はもう一度、指輪をじっくりと眺めた。顔を上げると、満面の笑みをたたえながら、その瞳からは大粒の涙が溢れかえっていた。そうして、大きく「はい」とうなずいた。中井戸は由美子のうれしそうな表情に安堵するとともに、胸がいっぱいになった。うれしさのあまりの涙が出るのを必死でこらえながら、精一杯の思いを込めて「ありがとう」といった。
 店の外の雪は積もり始めているようだった。


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 長年相場に参加していた朝原ですら、相場で大きな痛手を負った。彼は間違いなく、株式市場の裏も表も知り尽くしたプロだった。ましてや、個人投資家は厳しい状況に置かれている。丸松農林を買っていなくても、全般の戻り過程で何らかの株を購入していれば、2万2666円をピークに下落に転じた相場では含み損や売却損を抱えたはずである。思えば、今回の全般相場の上昇は、丸松農林が上げ、他の仕手株が追随し、個別材料株に人気が波及した。そして主力銘柄がようやく動き出したのだった。もし、政府が構造改革を優先し、増税などの国民負担を後回しにしていれば、その間に株式市場がさら上昇し、景況感も改善していたはずだ。日経平均が10%上昇すれば、東証の時価総額は約40兆円増加する。これが消費や投資を促進する効果になる。株価がもう少しでも戻り、その間に省庁再編などを行い、その後に消費税の引き上げなら国民の痛みは緩和されたはずだったとも考えられる。


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 12月も残り少なくなったある日の朝、中井戸宛に電話がかかってきた。電話に出ると、女性の声で「朝原と申します」と名乗った。「どちらの朝原さんでしょうか」と前回の脅迫事件のこともあり、慎重に聞いた。「投資顧問を経営しております、朝原の妻でございます」と言ったところでやや安堵したが、今度はどういう用件なのか疑問に思った。中井戸は「いつも大変お世話になります。奥様からお電話とは、どのようなご用件でしょうか」と聞き返した。妻はつとめて冷静な声で「昨晩遅くと思われるのですが、朝原が自殺しました」と区切るようにゆっくりと語ったのである。


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 丸松農林はその後も買い進まれ、2500円までのリバウンドを見せた。杉村組の資金の出所などは不明だったが、投資家ならば株価が上がれば売るのが当然だ。いつこの売りが出てくるかがわからず、かつてのようなどこまで上がるかわからないという期待感は持てない。11月に3000円を超えたところで株価は止まった。それでも安値からは3倍近くになっており、杉村組は利益を出せたか、損失を軽減できたことは容易に推測できた。そんなある日、日高は大量保有報告書を持って中井戸のところにきて「杉村組とやら、名義が消えたよ」といって書類を置いた。どういう仕組みだったのかはわからないが、戻り相場が終えんしたことだけは明らかだった。戻ったとはいえ、最高値から見れば半分以下の水準だ。2500円前後で売れていたとしても、損失が小さくなっただけに過ぎない可能性もあった。ただ、いえることは、中井戸が自宅のアパートに帰っても大丈夫ということである。由美子を不安がらせてはいけないので、電話で話すときもこの件は伏せておいた。普段は海外にいることを寂しく思うが、今回ばかりは日本にいない幸運に感謝したのだった。


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 その日の夜、中井戸は石川と茅場町の川沿いにあるバー「ウォール・ストリート」で待ち合わせた。今日は同僚の田代も一緒である。バーとはいっても、洋風居酒屋のような感じで、つまみ類なども豊富にある。店名のウォール・ストリートはもちろん、兜町と米国の証券街の名称をかけたものだ。兜町にある、ウォール・ストリートというわけである。まずはビールで乾杯すると、早速、杉村組の話題になった。中井戸が石川に会社の素性は現在調査中であることを報告したうえで、「どうお思いですか」と聞くと、石川は「問題は仕方なく名義を出したか、意図的なのかということだ」といった。
 そして「通常、仕手株というのは名前を表に出しては負けだ。闇夜だからちょうちんをつけて、見えない本尊を探しながらの買いも入る。名前が出た時点で正体見たり、ということになり買いの手は引く。大株主にいるとわかれば、株数がわかるうえ、株価が下がっていれば含み損を抱えていることも明白になってしまう」と続けた。
 中井戸も「確かにそうですよね。これまでの仕手株でも、本尊がわかったときから、相場は曲がり始めています。売り方と買い方ががっぷり四つに組んだ昭和50年代くらいまでの個人戦ならともかく――。しかも、今回は露骨に名義を出してきている。理解に苦しみますよね」



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 日経平均株価は丸松農林の高値に合わせるように、6月26日に高値2万666円を付け、その後は下落に転じた。橋本内閣が進める6大改革への期待感が織り込まれつつあるところに、消費税を3%から5%に引き上げるとの観測報道が出始めたことを嫌気し始めたのである。改革が先と考えていた投資家は、先に増税を行うという内閣の方針に対し、景気の先行きを懸念したのである。橋本首相は就任時には「改革を先に進める」と明言していたものの、97年度予算案の概要とりまとめを前に大蔵省が巻き返しにきたのが要因だった。官僚主導の打破が内閣の政策のひとつであったはずだが、大蔵族議員の力は予想を上回るものだった。消費税のみならず、個人医療費の現行2割負担を、来年度にも3割に増税する案も浮上。ようやく回復を始めた景気に、水を差すことが必至の状況になりつつあったのである。株価は以降調整色を強め、再度下値を模索する動きとなる。丸松農林が野山の一本杉のように上げ、個人投資家を活気付けた。全般相場の上げ過程では、個人投資家はさらに材料株や主要大型株にまで物色の範囲を拡大した。これが6月まで需給面で相場を支えた面が強い。しかし、個人の一部はいまや丸松農林で傷ついている。観測とはいえ、増税が相次ぐ見通しの中で、積極的に株式に投資する個人はわずかになっていたのである。

 9月のある日の昼、日高が原稿執筆中の中井戸のところへやってきて、1枚の書類を置いた。そして「これをどう思う」と尋ねた。書類は財務局の大量保有報告書、いわゆる5%ルールの届出書だった。よく見るとそれは丸松農林のもので、新規の保有者として杉村組という株式会社の名前、保有比率は5.01%となっていた。届出の義務発生日は昨日となっている。中井戸はとっさに、「企業舎弟ですか」と聞き返した。日高は「よくわからん、そこに書いてある保有目的の欄には『純投資』とあるから、単に大口の投資家かもしれない。しかし、純粋にそうなのかどうか」といった。杉村組の住所は福岡県・北九州市とある。中井戸は「少し、調べてみます」といって、受話器を持った。電話する先は日刊経済新聞の橋北登のところだ。夕刊の締め切り前なので、やはり橋橋北は席にいた。
 「なんだい、中ちゃん。また、何か調べものか」
 「いつもお願いばかりで、申し訳ないのだが」
 「この間はごちそうになったし、そうだな、今回の謝礼は例の彼女とのその後の動向について教えてもらうっていうのはどうだ」といった。突然由美子の話題になったのに狼狽し、日高が自席に戻っていることを目で確認すると「わかった、わかった」と取り直して、「実は調べてもらいたい会社がある。北九州市にある杉村組という建設会社なんだ」
 「ほう、何故、その会社を調べるんだ。例の丸松農林とやらに絡んでいるのか」
 「ご明察だ。丸松農林の大株主に昨日、突如出てきたんだ。お宅の優秀なデータベースなら、わかると思うのだが」
 「優秀かどうかはともかくとして、企業舎弟のにおいでもするというわけか」
 「さすがに、するどいな。でも、わからない。しかし、名もない企業が突然上場企業の大株主なのだ。怪しげな面がないとは限らないだろう」
 「わかった、調べて連絡する」といって、電話は切れた。

 杉村組という企業が大株主になったという情報が市場に出回り始めたのか、午後から丸松農林株は動意付いてきた。中井戸は、今度は朝原に聞いてみようと思い、電話した。しかし、留守なのか、何度も呼び出し音がするだけで、誰も出なかった。


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 佐藤崇は事務所代わりに使っていた都内のホテルで、報告や清算業務に追われていた。タックス・ヘイブンであるケイマン諸島に作った投資会社は既に解散の手続きを終えた。ケイマンでは国を挙げて外国資本の受け入れに力を入れているという経緯もあり、資金の出所や運用成績を開示する必要がない。佐藤はヘッジ・ファンドも使う手法を取り入れて運用してきたのである。日本に資金を還流するのも口座を分けて慎重を期した。ただ、当局の捜査が入るのは想定のうえだ。時間を稼ぎ、その間に現金化してしまう。捜査が入っても、自分ひとりが対応すればいい。これは、宮鉄鋼相場の時も同じだったし、裁判になっても、有力な証拠など既に存在しないのである。運用報酬は十分過ぎるほど得ていたし、その金をいったん現金化してしまえば、あとはどうにでもなる。政治家にも現金で渡す。秘書がホテルに来て、地下の駐車場で受け渡しを行う。もともとがアングラマネーだから、それが膨らんだところで、表に出るわけではないのである。丸松農林株は決算に苦しんでいた大手生命保険から3%のディスカウント(割引)を受けて市場外で購入した。約200万株の買い付け単価は300円に満たない。その種玉を売ったのが4800円前後だから、ざっと86億円の利益が出た。そのほかにも市場での売り買い稼いだ利益は40億円ほどある。合計120億円強の利益のうち、出資者である政治家や企業のオーナーへの利益還元は60億円を超える。残りは運用報酬や自分達で買い付けた分の利益だ。半分の30億円を佐藤が、残りをほかの3人で均等に割り振った。この手続きも既に終了している。

 宮鉄鋼相場時代と同じ3人の仲間とホテルのバーで軽い打ち上げを行った。ひと仕事終えた後だけに、達成感もあってすぐに心地よい酔いが回ってきた。明日はホテルをチェックアウトし、4人はそれぞれ他人に戻るのだ。捜査が入っても大丈夫なように、携帯電話は各々が買い換えた。連絡先の電話番号を削除するだけでは、危ないと思ったためである。パソコンはデータを消去のうえ見知らぬ中古買取り業者に偽名で売った。頭の中でそうした確認をしていると、一人が「佐藤さん、丸松農林相場をこのまま止めちゃうのは、もったいなくないですか」とつぶやいた。
佐藤は驚がくの表情で「いまさら、何を言っているのだ」と聞き返した。あまりの形相に押されたのか、「いや、純粋にそう思っただけです」とあっさりと引いた。佐藤は丸松の役員宅に銃弾が打ち込まれた事件を思い出し、こいつが絡んでいるのかと疑ったが、声には出さなかった。明日からは他人なのだ、何があっても関係がないのだと自分に言い聞かせながら言葉を飲み込んだのである。ただ、仕事が少し増えただけだ。もう一度携帯電話を買って番号を変更し、こいつとの連絡を絶つという仕事が、だ。残りの二人には後で教えればよい。「もう、あいつは仲間ではない」という連絡と一緒にである。仕手株を扱う世界は少しでも疑いがあれば、一緒に仕事など出来ない。わずかな疑心暗鬼が、相場感を狂わせる可能性があるためである。そういう疑念が原因となり、相場を仕上げられなかったグループを、佐藤はいやというほど見てきた。しかし、今回はもう終わっているのが幸いなのだった。
 何となく気まずくなった打ち上げを切り上げ、佐藤は一人ホテルの部屋に戻った。冷蔵庫から氷を取り出し、ウイスキーのロックを作り、ベッドに腰をおろした。そして、液体を一口含むと頭の中で、「今回の丸松農林株相場は、前回の宮鉄鋼株と同様にうまく行った」と振り返った。前回は大手証券が額面増資を打ち出したために最後は危ない状況だったが、それも今回の相場には生かすことが出来た。今回は一般個人投資家を誘導することで、最後までスムーズに運んだ。有力政治家の資金は宮鉄鋼相場で逮捕されても口を割らなかったことで、容易に集めることが出来た。作為的相場形成、風説の流布、相場操縦などの法律についても、「買え」などとの断定的表現を使わず、文書上も一般的な事実しか書いていない。株価の変動について、足はつかないはずである。
 問題があるとすれば、丸松の役員に銃弾が打ち込まれたことである。あれはいったい、誰がやったのか。勝手に相場に乗ってきて、勝手に事件を起こしたのなら問題はない。しかし、「止めるのはもったいない」といったあいつが何らかの関係を持っているのだとしたら……。しかし、深く考えても仕方がない、もう終わったのだと余計な考えを断ち切ったのだった。


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 中井戸の記事をあざ笑うかのように、丸松農林の株価急騰は続いた。信用の売り残高は約800万株にまで減少したが、それでもまだ800万株あるという状況だ。あくまで推測だが、佐藤が200万株を現引きし、それを現物で売却した。売り残高の減少およそ200万株は、わかりやすく言えばそれに対応する分に過ぎない。残った800万株はいずれ買い戻さなければならないものであり、株価の上昇はそれを催促する。丸松農林株はついに5月の高値5100円を突破、どこまで上がるかわからない状況になった。そして7月4日に5310円を付けたところで売りと買いが完全に合致した。ついに、買い戻しが一巡したのである。佐藤が既に売り抜けている今、もう上値を買ってくれる投資家は佐藤を信じる個人しかいない。しばらくは5000円に接近すると買いが入ったが、一度5000円を割り込むと、もう、後は崩壊するしかない。ストップ安を交えて売り物が続き、7月はチャートで大きな値下がりを示す大陰線をつけた。8月に入っても一向に下げ止まるけはいをみせず、中旬には2000円そこそこにまで暴落した。


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 朝原は在席しており、2回の呼び出し音の後に、いつものようにゆっくりと電話に出た。
 中井戸はまず、会合の件について聞いてみた。
「朝原さん、お聞きしたいのですが、一声の会の会合、7月はありますか」
 「いや、今のところ予定は入っていない。いつもだったら、毎月の会合の際に次回の申し込み用紙が、というか新聞50部分の請求書がくるのだが、6月にはなかった。次に実施するときに連絡するといっていたな。まあ、いつも宗教や健康の話が中心だし、銘柄が大きく変わるわけでもないからね」と特段気にする風もなく答えた。もう間違いない。佐藤は次の会合や新聞の発行などをやる気はない。売り抜けたとの状況証拠は一層強まった。

 「朝原さん、佐藤は既に丸松農林を売り抜けたと思います。売買手口もおかしかったんです。もう、会合は開かれないでしょう」
 「そうかな。あれだけの相場が、簡単に終わるだろうか。だって、佐藤は先月の会合でも、売れなんていっていなかったぜ」
 「朝原さん、佐藤は買えとも、ただの一度も言っていないでしょう。それが、当局に目を付けられないための、彼の作戦だったとは思いませんか」
「まあ、君の意見だから一応聞いておくが、そんなに悲観的に考えなくてもいいんじゃないか。そのうち、会合も開かれるだろうし」といったところで、ほかの電話がかかってきたとのことで、通話は切れた。丸松農林の弱気など聞きたくなくて切り上げたようにも感じられた。それにしても、長年株式市場を見てきて、相場の酸いも甘いも知り尽くした朝原とは思えない楽観論だった。朝原でさえ、佐藤教の信者になってしまったかのようである。投資顧問という性格上、下げ局面で下手に買い推奨でもしたなら、顧客が傷み、しかも離れていってしまうのではないか。中井戸は他人事ながら、この先の経営状況を気遣った。また、朝原が見通しを楽観する根拠を探してみてもした。本当に相場が終わっていないとしたら、他の仕手筋が株を引き取ってさらに買い進む「手替わり」くらいしか思いつかない。しかし、5000円を超えるような銘柄での手替わりというのは、かつて例のないことでもある。

 逡巡したすえに、中井戸はその日の紙面に「丸松農林株のピークは近い!? 証券5社にまとまった売り」などとする事実関係のみの記事を書いた。問い合わせや買い方の嫌がらせの電話が来ることが予想されたので、慎重には慎重を期した。日高は役員のところへ行き、対策を打った。中には「下がるような記事は書くな」という幹部もいたが、日高が「全責任を負う」といって納得させ、広報担当には、「問い合わせには『記事の内容が全てです』と答えるように」と釘を刺した。小さな記事でも、この手の内容には抗議も含めて多くの問い合わせがくることを、日高は経験則でよく知っていた。記事内容のあげ足を取られてはならない。投資家は株価が上昇しているときは良いが、下がると人のせいにする傾向がある。これは個人投資家に限ったことではない。1980年代後半のバブル相場でこぞって株式を買い、90年以降の急落で痛手をこうむり、真っ先に証券会社に損失の補填を求めたのは大企業だった。買った株が上昇したのは自分の手柄だが、下がったら他人のせいにするという体質。投資に際した自己責任の原則はお題目だけで、日本ではまだまだ確立していないのが実情なのである。


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