一昨日、帰宅途中の電車の中で、隣に座っているオッサンがいじくっているスマホの画面が目に入り、おおっ!と思った。なんと弊社のロゴマークが出ているではないか。
どうやらそのオッサン、ラジコのアプリを起動して弊社の放送を聴いておられるご様子であった。
この時間は、株関係やなかったなと、番組表を思い起こすと、沖縄音楽を流している時間であることに気がついた。袖触れ合うも他生の縁。たまたま隣に座っただけであるが、このオッサン、メチャええ趣味してるやないか。と感心する。弊社の放送を聴いて戴いているリスナー様の存在は、ただただ嬉しいものだ。
さて、某大手代理店の知人によれば、「ラジオ局はオタクが多い」とのことだ。時々僕もそう思うが、正確に云えば、「ラジオ局はラジオオタクが多い」だろう。
そして、いささか論理を飛躍させれば、ラジオが好きな人間は、国籍・洋の東西を問わず、みんな似たようなタイプとちゃうかと思う。
今、拙ブログをお読み戴いている方の中にも、海外でタクシーに乗ったことがある人は多いだろう。アメリカであれユーロであれアジアであれ、タクシーの運転手さんは大体がラジオをつけている。言葉は無論、分かる由もないがワイドであれニュース番組であれ、構成は大体、世界中おんなしで、男女のパーソナリティーがいて、音楽があり、ジングルがあり、CMが入る。僕は一方的に非常な親近感を抱いてしまう。
所謂、欧米の先進国ほど番組も先進な作りになってるかと云えばそんなことはなく、ベトナムのローカルホテルの部屋で聴いたラジオが、実に凝った音づくりをしていて感心した記憶が僕にはある。
一方、僕が毎朝ダウンロードして聴いているBBCは、ストレートトークがえんえんと続いて、もう少しなんとかならんのか。といつも思う。ま、ニュース主体なので凝る必要など全くないのかもしれないが。
共産中国のラジオも意外に面白い。中国語が分からなくても、大阪のラジオ局のノリをさらに過剰にした感じで、なかなか楽しい。これからもっと面白くなりそうな有望株だと思う。
とにかく、今やスマホ(ラジコ)で、色んな局の放送をいい音質で聴けるようになった。暗いニュースが続く昨今の日本だが、ひょっとしたらラジオにはまだまだ面白い世界が待ってるのではないか?と、一昨日、隣で弊社放送をお聴き戴いているナイスミドルを見て感じた次第ですわ。
ついこの前、(僕を含め)男3人&女性1人でお酒を飲む機会があった。
そこで驚いたのは、僕以外の全員がフェイスブックをやっていたことだ。
いや、これはワイが相変わらず時代遅れなだけなんだろうが、オトコは二人ともワイと同世代にかかわらず、「トモダチ増えてオモロイで」などと、コドモの如き感想を口走ったのには驚愕した。
女性の方はと云えば、我々よりははるかに若い世代(彼女は一部の人々の間で非常に人気が高いブロガーです)で、最近になってフェイスブックを始めたらしい。オッサンらと違う点は偽名で参加していて、オッサンらほど興奮して取り組んでいる感じではなかった。
おっ偽名で参加できるんやったら、ワイもやろかなとも考えたが、オッサンらによると、やっぱし本名あってこそで、偽名やったら多分、全然、盛り上がらへんでぇ。ちゅうことであった。
とにかく、オッサンらは二人ともなんと、小中校時代のクラスメートらとも交友が復活したり、あるいは同じ趣味を持つ全く未知な人間とも出会いがあったりして楽しいらしい。
まーワイくらいの年になると、即物的な刺激や金銭的な利益しか興味を示さないものだ。ゆえに、新たな出会い。なるフレーズを聴くと、情けないことにスポーツ新聞の風俗欄に掲載されてるような劣情を刺激するあれこれを想像してしまう訳だが、然し、そんなエエもんなら始めない理由はないか。
オッサンら二人は勿論、実名をサイバーワールドに晒して楽しんでる様子だが、旧石器時代の遺物の如き僕は、その実名露出がちょっと引っかかるのだ。派出所の掲示板に「おい、小池!」なんて貼ってあるけど、なにか、あれとあんまし変わらんような気がするのである。
考え過ぎかもしれんが、フェイスブック社のうら若き兄チャン社長が描いた絵にまんまと乗せられる構図はおもろないし、あるいはデジタルディバイドさでは人後に落ちないワイの個人情報がモロバレに(そうならないようにできるのだろうが)なりそうな気もするし、なんか怖いなーちゅう不安がおますわ。
先程、ニュース番組を見ていたら茨城と千葉で震度5の地震があったとテロップが出ていた。なにもなければいいが。ちょっと不安に思う。
地震と云えば一昨日、中国系サイトに「“日本人、地震で死んでください”韓国人の発言に中国も注目」なる記事が出ていた。日本の各メディアは例によってこの事件をネグレクトしているが、大震災からちょうど1年が経過した11日に何者かがYouTubeに上記のトンデモ発言をアップロードし、ネチズンの間で大騒ぎになった事件である。
まだアップロードした人間が特定されている訳ではないのに、そのニュースサイトが韓国人の発言と記していたので、僕は少なからず驚いた。もっとも単に和訳した人間の早とちりかもしれないが。
ネットはクルマと同様、便利であるがゆえに怖ろしい。この投稿内容、今やあちこちのサイトで閲覧可能であり、もう多少のことでは驚かないオッサンの僕ですら、見ていて非常に気分が悪くなった。
こんなアホな動画、よく投稿できたもんやなーと呆れるばかりだ。けれども、韓国・国民日報の電子版によると、動画をアップした青年は今や韓国ネチズンの間では安重根(伊藤博文の暗殺犯)に匹敵する英雄と持ち上げられ、「よくぞ言ってくれた」「大統領にしたい」等の賞賛コメントが多数投稿されているらしい。
勿論、韓国国民の全部が全部、この動画に狂喜乱舞している訳ではないことは存じているが、韓国の全国紙各紙に「最初に温かい手を差し伸べてくれた韓国国民の皆さんを日本国民は永遠に忘れない」「私たちは皆さんと手をつなぎ、ともに前進したいと思っています」なる感謝広告を掲載した在韓国日本大使館のオメデタさもまた相当に異常であるように思う。(もっとも広告掲載は動画事件の数日前ではあった)
この(決して安くないであろう)広告の掲載料金、元々は僕らの税金やで。
トンデモ動画投稿はタイムラグがあるのでさておき、未だに島根県の竹島を不法占拠し続け、国際名称である日本海を東海に変えろと喚きまくり、日韓スワップが締結されるやいなや日本大使館前に慰安婦の像を設置し、日韓基本条約締結時に「完全かつ最終的に」決着しているにもかかわらず、もっともっと元慰安婦に賠償しろと執拗に脅しをかけてくる国家に対し「私たちは皆さんと手をつなぎ、ともに前進したいと思っています」とは冗談がキツ過ぎる。
既にみなさんよくご存じの通り、今、政府は大増税にシフトしている。にもかかわらず、クソ高い税金使って国民のコンセンサスを得ぬまま、こんな広告を出すとはあまりに納税者を馬鹿にし過ぎですわ。これこそ真に税金の無駄使いの最たるもので、こんな不毛なカネ持ってるのなら、先ず第一に被災者に還元されるべきやないか。・・・と僕は思うけど、みなさんはどうでしょうか。
閑話休題。
さて、韓国には過剰な感謝を表明している一方で、人口が2300万人の国であるにもかかわらず、200億円にも及ぶ震災義援金を寄せてくれた台湾に対し、野田政権はあまりに非礼な対応ぶりである。
11日の東日本大震災追悼式で、台湾代表を指名献花から外し、また海外来賓席ではない2階の一般席に座らす等、追悼にやってきた各国代表の前でこれみよがしに冷遇してみせたのだ。
別に金がすべてではないが、これが世界最大規模の義捐金を送ってくれた国に対して示す態度なのか。
日本の隣には、こちらが震災で疲弊しているにもかかわらず、また既に解決済みの事柄にもかかわらず、執拗に謝罪と賠償を要求してくる国があるかと思えば、何の打算も恣意も無く、物心両面から支援してくれる国もある。
いったいどちらが「手をつなぎ、ともに前進したい」パートナーであるのか、誰の目にも一目瞭然ではないか。
とある書評サイトを見ていたら「自立死を選ぶアメリカ人の姿」という言葉が目にとまった。
ホンマに合衆国内でそんなんがポピュラーなのかどうかは存じないが、誤解を恐れずに云えば、自立死とはなかなかエエ言葉やないか。と感じたのだ。
そう云えば、昨年末に見に行った不動産の有効活用業界展示会では、なんと、「孤独死」(某国営放送局の命名か)住居の後始末サービスを請け負う会社が少なからぬブースを出展しておられ、驚いた。それはそのまま近未来のニッポン社会を暗示している風に感じたのだ。
孤独死と自立死とでは、語感から受けるインパクトが全然違う。孤独死のニュースに接する度に僕は、(たとえ家庭を持ってても)こりゃ、明日は我が身や。と戦慄するのであるが、自立死と表現してくれれば、若干、その恐怖は薄まるように思う。
さて、上記サイトによればなんでもアメリカ人は、高齢になり身体的な不自由が出てきても、極力「自立して生きることを希望する人が多い。」らしい。もっとも、アメリカ人と云っても、先住民族系・白人・黒人・エスニック系と多種多様なので、「平均的な日本人」みたいな分類は難しいと思うが、もし、過半数の人間がそんな志向を持ってるなら、それは、なかなか大した覚悟であるように思う。
前にも書いたが、孤独死。ちゅう単語は鬼気迫る陰惨さを感じ、ワイは嫌いです。ひねくれ過ぎかもしれないが、命名者の第三者的覗き見趣味・嗜虐性も若干、感じるのだ。
思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
上記はあの織田信長が桶狭間の戦いの直前に舞った(とされる)「敦盛」の途中のセリフですわ。いや、昔の人はええこといわはる。今の僕らと覚悟が全然違うと思う。
身内がいようが、家族がいようが、その他大勢の知り合いに囲まれていようが、また、古今東西・洋の東西を問わず、最後の瞬間は誰でも一人。遂に今際を迎えたときは、周囲の勝手な形容はさておき、みんなそんなに変わらないのではないか。








